私は、小学校から中学まで伊豆の天城山の麓にある学校に通っていました。山間部にある小さな学校で、その地域で唯一の学校でしたので、地域の子全員がその学校に通っていました。いろいろなタイプの子どもがいました。今から考えると非常に“個性的な”子どもたちばかりでした。
知的な程度はバラバラでしたが、それが特に問題になることもありませんでした。人付き合いがとても苦手な子もいました。しかし、遊ぶのは一緒であり、バス通学も一緒でした。山村の学校でしたので、田植えと稲刈りの時期は人手が足りなくて、家の農作業を手伝いために学校を休むことが認められていました。
少し変わった子どもがいても目立つことはありませんでした。別に子どもだけでなく、大人も皆、ちょっと変わった、個性的な人ばかりだったからです。しかも、人付き合いが苦手な子どものほうが、重宝がられたということもありました。というのは、そういうタイプの子どものほうが働き口があったからです。
特に山仕事などは単純な仕事が多いので、人付き合いが苦手だが、コツコツと同じことを繰り返すのが得意な子どものほうが役に立ちました。実際、私が生まれ育った地域における働き者は、学校の成績があまり良くなく、行動の柔軟性がない人達であったように思います。
私は、このような環境で育ったので、“個性”というのは目立たないものと思っていました。ところが、受験をし、田舎を離れて普通科高校に進み、さらに都会の大学に入って気づいたのは、“個性的”というのは、大多数とは異なっていて目立つ人の特徴という意味をもっていることでした。その場の秩序を乱す変わった人が個性的と見られているということにもありました。さらに自己主張の強い人も個性的とみられていました。むしろ個性的であろうとして自己主張する人もいる事にも気づきました。
私は、都会に出てきてずっと居心地が悪いと感じていました。それは、“個性”= “変わっていること” =“目立つこと”という図式の中で、普通に個性的でいられなくなっていたからなのだろうと、今になって思います。普通に自分らしくいることが自然な個性として、目立つことのない環境を大切にしたいと思います。それが多様性を認める社会であるからです。
下山晴彦