「多数派の方が正しそう」という雰囲気について

 「多数派に合わせる技術」は、日常生活の中で役に立つ場合が多いです。

 例えば、職場の人たちの大多数が「仕事の合間に職員同士で少し雑談をして親交を深める」ということをやっているのであれば、「ちょっとした雑談をする技術」が役立ちます。周りの人と同じように雑談をすれば、周りの人から「この人は私たちと調子を合わせてくれる」と好意的に思われ、仕事が任されやすくなる……といったメリットがあるかもしれません。

 ただし、「多数派に合わせること」は、必ずしも「道徳的に正しいこと」であるとは限りません。つまり、多数派は別に「正義」ではなく、また「悪」でもなく、「単に数が多いだけ」――という場合もよくあります。

 上記の雑談の例もそうです。「少し雑談をして周りと親交を深めようとすること」と「まったく雑談をせずに黙々と仕事に集中すること」の、どちらが人間として正しい在り方なのかを客観的に判定するのは難しいです。前者の人が多い場所では、雑談をするのが正しいことであるかのような「雰囲気」は存在するかと思いますが、あくまでそれは雰囲気の話であって、「どちらが正義なのか」については「どちらとも言えない」のではないでしょうか。

 ただ、「『多数派の方が正しそう』という雰囲気にとらわれないで生きること」は、たいていの人にとってかなり難しいのではないかとも思います。やはり数が多いと「優勢」に見えますし、それに合わせられないのは「悪」なのでは? と不安になるのは自然なことかもしれません。

 そして、発達障害のある人たちの中には、この不安を強く感じながら「多数派に合わせなければ」と日々頑張っている――というより、頑張り「すぎている」人も多いです。もしその人たちが、「多数派に合わせる技術があれば『便利』ではあるけれど、それが『正しい』かどうかは別問題だ」と思えていたら、それほど強い不安を感じなくても済むかもしれませんが、「多数派は優勢、優勢だから正しい」と思わせる雰囲気の影響力はやはり強力なので、なかなかそう簡単には割り切れない場合が多いのではないでしょうか。

 この話は次回に続きます。次回以降、発達障害のある人が「多数派に合わせないと『正しくない人間』になってしまう」という不安を強めていく経緯などについて説明します。

※ 本エッセイは継続的に更新されます。毎回、発達障害やそれに関連するお悩みをテーマとし、そのお悩みの理由や対処法を考える上で役立つ知識・考え方などをご紹介いたします。

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